1987年、340万部。
大ベストセラー
村上春樹さん
「ノルウェイの森」
トリビュート小説。

官能作家
内藤みかが
初めて
官能ゼロで描いた、
純粋な、
恋愛小説。

「あなたを、ほんとに、好きだった」
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<プロローグ>

ヒロくんは、私の
すべてだった。 
 
あの時、私の世界
は彼一色に染まっ
ていて、私には、
彼しか見えなかっ
た。

ヒロくんといると、
毎日、何かが起き
た。

うれしいことも、
かなしいことも、
くやしいことも、
さみしいことも。

とにかく、感情を
揺らすたくさんの
出来事が連なった。
私はそのたびに喜
んだり悲しんだり、
怒ったり泣いたり
していた。

ヒロくんのことが
大好きなのに、私
には気が休まる暇
がなくて、しみじ
み大好き、と呟く
ことも、できなか
った。

ヒロくんは、加季
さん、ゆっくりし
ていきなよ、と、
いつも言ってくれ
た。急いだって、
ゆっくりやったっ
て、結果は同じな
んだよ。私よりみ
っつ年下のくせに、
彼は時々、妙にえ
らそうなことを口
走った。 
 
二十二歳のあの頃。
学生寮の二〇九号
室だけが、私の世
界だった。

そして大学四年生
だった私は、この
世界からもうすぐ
出ていかなくては
ならないことも、
知っていた。

だけどヒロくんと
一緒にもう少し、
夢を見ていたかっ
た。

ヒロくんが作り上
げた世界の、私は
住人だった。彼は
神で、私はしもべ、
ううん、彼の信者
みたいなものだっ
た。

彼はたくさんのド
ラマを仕掛けてき
た。私達は、うわ
あ、と毎日のよう
に、目をぱちぱち
させて、いろいろ
なことに驚いてい
た気がする。 
 
小田急線は、多摩
川を越えようとし
ていた。静かな水
面。薄曇りで世界
が色を少し失いか
けている肌寒い午
後だった。

吊革に掴まってい
た私は、見るとも
なしに、眼下の河
原を見下ろした。

ふたつの人影が見
えた。キスを、し
ていた。

ジーンズをはいた
カップルが、お互
いの顔と顔をぴっ
たりくっつけるよ
うにして、キスを
していた。

電車がごぅう、と
音を立てて、川を
横切っていく。そ
の振動にもびくと
もせずに、二人は、
お互いを味わって
いた。

不意に、瞳が、熱
くなった。涙ぐん
でいた。 
 
陸地に戻ると、電
車の車輪の音はま
た静かになって、
先を進む。 

途端、チャカチャ
カ、耳障りな音が、
左隣から聞こえて
きた。イヤホンの
音量が大きすぎる
のだ。

大きなギターケー
スを抱えた、不揃
いのぼさっとした
髪の男の子を少し、
睨んだ。けれど、
次の瞬間……。

彼がイヤホンを外
して、ブルブル震
えて着信を告げて
いる携帯電話を耳
に当てた途端、迷
惑だなと思った音
は、ちっとも迷惑
ではなくなってい
た。 
 
イヤホンから漏れ
聞こえてきた音楽
……。 
それは、ピチカー
トファイブの『ス
ゥイートソウルレ
ビュー』だった。

この曲を、ヒロく
んは、よく聴いて
いた。

一九九三年だった。
バンドブームが去
って、軽いさっぱ
りした歌、ZARDと
かB'zとかが流行
り始めた時代。

毎週カラオケに繰
り出しても、どう
してなのだろう、
私達は全然飽きな
かった。毎週のよ
うに『バッドコミ
ュニケーション』
や『負けないで』
を歌っても、聞き
飽きるなんてこと
は、なかった。 
 
あの頃。わかりや
すくてノリがよく
て、歌いやすい曲
ばかりがランキン
グに名を連ねてい
た頃。

手っ取り早く楽し
くやりたいという
あの時代の空気を
反映した曲が溢れ
るなかで、一瞬だ
け、おしゃれな曲
調が煌めいた時期
があった。

フリッパーズギタ
ー、オリジナルラ
ブ、東京スカパラ
ダイスオーケスト
ラ、モダンチョキ
チョキズ、そして、
ピチカートファイ
ブ。 

よりお洒落な作品
を目指したグルー
プがいた。ヒロく
んは、彼らがお気
に入りだった。 
 
世の中に 
ハッピーも
ラッキーも  
ぜんぜんなくても
あなたとなら 
うれしくて 
ほほ頬ずり
したくなるよね 
 
優しい、囁きかけ
るかのような、宥
めるかのような、
お母さんのような
深い愛情こもった、
おしゃれなヴォー
カル、野宮真貴の
歌声。あの日、ヒ
ロくんが、私にプ
レゼントしてくれ
た、曲……。

不意に、十年前の
感情が噴き出して
きた。 
 
もう、遠い昔に、
心からいなくなっ
ていたはずの、や
りきれないほどの
もどかしい、愛。
そして、憎しみ。

これは、何の偶然
なのだろう。どう
して隣の人は、こ
の、十年前にほん
の少し流行した、
もう解散してしま
ったグループの歌
を、聴いているの
だろう?

思い出に逢いに行
こうと決心して、
私は、何年かぶり
に小田急線に乗っ
ている。そうした
ら、ピチカートフ
ァイブが流れてき
た。

河原でカップルが
長いキスを、して
いた。 
 
「正しかったら世
界中が応援してく
れる。そしてその
証拠がいっぱい現
れる」

ヒロくんは、昔そ
う言っていた。だ
から、頑張りすぎ
ないでいいんだよ、
と私に言ってくれ
ていた。

ねえ、私は今、間
違ったことをしよ
うとはしていない
よね?

だから、たくさん
の偶然が重なって、
私に合図を送って
いるんだよね?
唇が、わなないた。
 
忘れようとして閉
じこめておいたこ
とを、私は、思い
出そうとしている。

それは、ものすご
く愛していたはず
の人のこと。そし
てもう二度と私の
前に現れてはくれ
ない、去っていっ
た人のこと。

ヒロくん。ヒロく
んの言った通りに
なってきているよ。

私は、あなたを思
い出そうとしてい
る。
そのことを、どう
して、あなたはわ
かっていたの? 
 
「君はいつか、僕
のことを、書く」

ヒロくんは私にそ
う予言していた。

私がヒロくんを愛
した日々。けれど
ヒロくんは、私を
愛してなどいなか
った日々……。

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