セックスレス短篇集 恋愛症状 内藤みか 徳間文庫より 11月5日、発売!
耳 〜流産〜 1 受話器からは、 息づかいだけが、 聞こえてくる。彼 の、いつもよりも 荒い、息。 この沈黙を、ど う解釈したらいい のだろう。私は携 帯電話を、握り直 す。 手が、汗ばんで いた。 「なんで、黙って るの」 思わず、問い詰 めるような声が、 出てしまう。どち らかといえば、私 がリードしている 恋。私が行きたい ところ、私が食べ たいものに、彼は、 付き合ってくれて いる。だけど、だ からって、こうい う時に、黙ってい るなんて、ずるい。 日課になってい る、寝る前の携帯 メール。今日は、 おやすみと書く代 わりに、 『“あれ”が来な いの〜』 と、軽口風に綴 ってみた。 生理が遅れてい るのは事実で、明 日でもう一週間に なる。 そろそろ、妊娠 検査薬を買ってこ なくてはならない かもしれない。ど んな顔をして買え ばいいんだろう。 近所の薬局で買 うと、店員さんに、 いろいろ勘ぐられ るかもしれないか らやめておこう。 いつもサプリメン トやコスメを買い 込んでいるから、 顔を覚えられてい るかも、しれない し。 なんだかこんな 風にこそこそして いるのって、おか しい。私は悪いこ となんかしていな いのに。相手の男 だって、独身だ。 別に結婚の約束は していないけれど、 全然望まない妊娠 というわけでもな いはずだ。 あの日……。 彼の部屋でなん となくその気にな って、お互いに服 を脱いで……。私 も彼の温かな背中 に手を回して、ベ ッドの上でふたり でもつれ合って… …。 さあ、ひとつに なろう、というと ころで、避妊具が ないことに、気づ いた。 「外で出すから」 彼がそう言った し、私も、頷いた。 今までだって、 そういうハプニン グはあったけれど、 妊娠はしなかった し。 でも、あの日か ら、三週間ほどが 経っても、私の生 理は、来ない。 もう少し、自分 の身体に慎重にな るべきだったのか もしれない。あの 日は、ちょうど排 卵の頃だったのだ ろうと思う。確か に彼は私のお腹の 上で果てたけれど、 一部の精子が、中 に零れてしまった のかもしれない。 生理、来ないな、 が三日目となり四 日目となり、不意 に、妊娠がリアル なものに感じられ てきた。 どうしよう、と 思った。 産む? のだろ うか? 私の仕事は? 続けるんだろうか。 親には? 何て 説明すれば、いい のだろう? そし てハヤトとは? ……結婚、する のだろうか? 全然、現実感が なかった。 ひとりで考えて いても、結論なん か、出てはこない。 だけど、だからと 言って、ハヤトに こんな重い話題を 投げかけるのも、 つらかった。 本当は、妊娠検 査薬を買って、ひ とりでチェックを し、もし陽性だっ た時にだけ、彼に 打ち明けるつもり でいた。 なのに、どんど ん、ひとりで抱え ているのが辛くな ってきて、メール を打ってしまった。 送信ボタンを押し た時、少しだけ、 後悔した。やっぱ り言わなければよ かったかな、と。 生理の前、私は 軽く、むくむ。 特に膝から下が ひどい。立ち仕事 でもないのに足が 腫れて、靴がきつ くなってしまう時 もあるほどだ。乾 いたスポンジが水 を吸い込むかのよ うに、この時期は 身体が重くなる。 脳にも水が浸透 していくのだろう、 頭の中がぶよぶよ している。耳のほ うまでぼわんと膨 らむほどに、水が、 満ちていく。 水の中を漂って いるかのようで、 身体中が水に包ま れているかのよう で、この時期の私 は、ぼうっとして しまいがちだ。そ して、ももや腰や 脳味噌がもう限界 というところまで たぷたぷに溢れて きたところで、や っとのことで生理 が来る。 寝込むほどでは ないにしても、ぼ うっとしてしまっ て、決してベスト な体調では、ない。 いつもだったら この辛さからは、 もっと早く解放さ れているはずなの に、生理は来ない。 私の身体は、水か さを増し続けてい る。その苛立ちと、 限界に近いけだる さとを、ハヤトに 少し託してしまっ たのかもしれない。 果たして、彼か らはすぐ返事が来 た。 直接携帯にかか ってきて、 「今のメール、ほ んとなの?」 と、焦った声で 尋ねてくる。 「ほんとよ。もう 一週間も、遅れて る」 冷静な声で、答 えた。責任は彼に も半分あるとはい え、なんだか私が 彼を責めているよ うな感じがして、 居心地が悪い。 「……」 彼は、黙ってい た。随分長いこと、 息づかいだけが、 私の耳に届いてい た。普通にお喋り をしている時に、 こんなにはぁはぁ されたら、 「やだ、恥ずかし い」 などと、笑い出 してしまうかもし れない。腫れぼっ たくなっている耳 たぶに、彼の吹息 が届いた気がして、 首を縮めてしまう。 「黙ってないで、 何か、言って」 じれったくなっ て、そう持ちかけ た。 「うん……」 ハヤトは、こう いう事態を何も予 想していなかった ようである。どう 動いたらいいのか、 何を言えばいいの か、全然わからな いらしい。頭が真 っ白になってしま っているのかもし れなかった。 (前、子ども欲し い、って、言って たくせに) 少し、呆れてし まう。 もしかしたら喜 んでくれるんじゃ ないか、なんて、 期待していたのに。 現実は、これだ。 ただおろおろする だけだったなんて ……。 「まだ妊娠、と決 まったわけじゃ、 ないんだよね?」 「うん……」 「検査薬とかは? 」 「まだ、買ってな い」 「……明日、一緒 に確かめようか」 「いい、ひとりで、 やるから」 私のオシッコが かかったばかりの 検査キットを、二 人でホテルの部屋 で眺めなくてはな らないのも、気が 滅入ることだった。 陽性だった時の彼 の表情を見るのも、 恐かった。 「できてたら、そ のとき、また考え よう」 ハヤトは少し、 落ち着きを取り戻 していた。 その後、私はひ とりで、隣の駅の ドラッグストアま で、自転車を飛ば した。私のことな ど知っている人が いないであろう街 で、一番安い一回 分の検査キットを 買う。 千五十円だった。 小さな紙袋に入れ られたそれをバッ グに仕舞う時、少 し、惨めだった。 そして、唇を噛み しめて、家に向け てペダルを踏み直 す。 むくんでいる耳 たぶに、少し冷た い風が当たった。 ハヤトは、喜ん でなど、いなかっ た。 ひどく、困って いた。 それが、すごく 哀しかった。 「できてたら、そ の時に、また考え よう」 という言葉の意 味を、私は考えた。 彼は、 「できてたら、産 もう」 「できてたら、結 婚しよう」 どちらとも言わ なかった。 お互い、こんな ことが現実に起き るとは持ってもい なかったのだから、 しかたないのだけ れど……。 それに彼は、私 の体調を心配して もくれなかった。 聞かれたら、普段 より少しむくんで いるとか、つわり みたいな吐き気は ないとか、いろい ろ、答えたのに… …。 私は彼に、多く を望みすぎている のだろうか。 赤信号で、止ま る。 ハヤトを少し、 恨めしく思った。 彼は、いまごろ 悶々としているか もしれない。でも、 きっと眠くなった ら布団に潜り込ん で、いつものよう に眠ることだろう。 その時には、新し く芽生えたかもし れない命のことな ど、頭から離れて しまうことだろう。 でも、私は違う。 二十四時間、片時 も離れず、子宮が 在る。常に、いる かもしれない子ど もを、身体が意識 している。慣れな いプレッシャーで、 早くも身体が疲れ ている。肩が緊張 で、がちがちに凝 っている。これか ら先は長いかもし れないのに、どう したらいいのだろ う……。 信号が青になっ た。 難しい顔をした ままで、ペダルを ぐいと踏み込む。 サドルが少し強 めに股間に当たっ た。その時、生温 かいものが、パン ティに触れた。懐 かしくも生々しい 触感に、思わずび くりとした。 家に帰り、靴を 脱ぐのももどかし く、パンティを玄 関先でずり下げる。 赤い印が、そこ に在った。 なんだ、来たの ね。 不意の来客を慌 てて迎えながら、 トイレに入って、 ナプキンを当てる。 安堵感が広がっ ていった。やはり、 自由がいい、と。 小さな子どもを抱 えて暮らすなんて、 自分にはできなそ うで、怖じ気づい ていたからだ。 でもそれと同時 に、淋しさが、こ み上げてきた。母 親になれなかった ……。なる気持ち などあまりなかっ たくせに、天使が 腕の中をすり抜け て行ってしまった かのような、喪失 感があった。 ハヤトに生理の 到来を告げたのは、 それから丸一日経 ってから、だった。 <ここまで>
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