セックスレス短篇集

恋愛症状

内藤みか

徳間文庫より

11月5日、発売!




乳首
〜パニック障害〜



  1

 マンションを、
買ってしまった。

 衝動買いだった。

 近所を散歩して
いて、小高い丘の
上に建設中のそれ
を、見つけてしま
ったせいだ。白っ
ぽいレンガを一面
に張った、小じゃ
れた三階建てだっ
た。

 ここだったら、
眺めもいいんだろ
うな。
 その日は空も綺
麗な水色をしてい
て、マンションは
まるで灯台のよう
に、白く清潔にそ
びえ立っていた。

 不動産会社の人
が
「中、見てみます
か? もうモデル
ルームだけは完成
しているんですよ」

 と声をかけてく
れた。
 だから、ふらふ
らと入ってしまっ
た。

 物件を見るなん
てことをしたのは、
これが初めてだっ
た。そんな気もな
いし、そんなお金
もないし。

 東京でひとり暮
らしをしていると、
服に遊びに化粧品
にと、絶え間なく
お金が必要だ。ち
まちま使っている
ので、まとまった
貯金ができるわけ
がない。マンショ
ンなんて夢のまた
夢だ。それにまだ
二十代だから、早
すぎるし。

 すぐに部屋を見
せてくれるのかと
思っていたら、最
初にアンケートを
渡された。年収や
家族構成まで書か
なくてはならなか
った。正直にたい
して高くない金額
と、独身である、
と書き込んでしま
い、少し後悔した。

 冷やかしで来て
いるのがバレてし
まうのでは、と恐
れた。

 けれども、営業
マンはひどく物腰
柔らかに接してく
れた。なぜなら、
ここには、
「1LDKのプラ
ンもございます」
 からだ。

 でも、モデルル
ームは3LDKだ
った。
 この間取りが、
一番一般的なのだ
という。 ベッド
ルーム、和室、子
ども部屋。ひとつ
ひとつ、遠慮がち
に私は見て回る。

 どうぞ棚も開け
てみてください。
収納もたっぷりあ
るでしょうと自慢
げに囁かれたが、
他の物件のことは
知らないので、比
較のしようもなく、
曖昧に笑って誤魔
化した。

 最後に南に面し
たオープンカウン
ター付きのリビン
グダイニングに通
され、私は思わず
「わぁ」と声が出
た。窓から、街が
一望できたからだ。

 晴れていたので、
駅を走り抜ける急
行電車はもちろん、
隣のターミナル駅
前のビルやデパー
トまで見通せた。
駅からこの丘にか
けては、小さな家
々が、白く、まる
でミニチュアのよ
うに密集している。

「いいでしょう。
ここが一番高台だ
から、今後視界を
遮るような建物も
できませんし、こ
の眺めは半永久的
に続く財産ですよ」

 営業マンの言葉
に、私は素直に頷
いた。
 人々を見下ろす
天界の住人のよう
な、なんて言った
ら言い過ぎかもし
れないけれど。南
面が全部ガラス張
りになっている気
持ちのいいリビン
グは、去り難く感
じてしまうほどに
居心地が良かった。

 私が今住んでい
る部屋は、窓の向
こうはすぐにお向
かいの家だから、
思いきり開け放つ
こともできなくて
窮屈で……。 

 ……この風景が、
欲しい。
 欲しい、と一瞬
考えてしまった私
の気持ちをまるで
読んだかのように、
営業マンが誘う。

「いかがでしょう、
別室でプランのご
相談など」

 ふらふらと私は
ついていった。
 そしていろいろ
な……1LDKな
ら新婚生活でも使
えますよとか、頭
金はゼロでも構い
ませんよとか、月
々のお支払いはお
家賃並ですよ、な
どという説明を受
けた。

 本当に、今住ん
でいるマンション
よりも、少し安い
くらいだった。こ
れならいいかな、
という気持ちにも
なる。

「あ、でも」
 大事なことを思
い出した。
 マンションを諦
めるいい口実にも
なる。
「今すぐじゃない
んですけど、私、
犬を飼いたいんで
す。小型犬なんで
すけど」

 昔、実家で飼っ
ていた、狆。
 白黒で、尻尾も
毛もさらっと長く
て、大奥で可愛が
られていたともい
う可愛いチンクシ
ャの顔。狆はムダ
吠えもせず、人な
つこい。主人の横
で、おとなしくち
んまりと座ってい
られる、家犬だ。

 小さな三キロく
らいの命の温もり
と、いつかもう一
度暮らそう、と決
めていた。だから
集合住宅では……。

「大丈夫ですよ」
 営業マンは、に
っこりと唇を左右
に伸ばし、優しい
父親のような微笑
を作る。若いくせ
に、よくこんな柔
和な、客を安心さ
せる顔が作れるな
あ、と感心してし
まうほどの営業ス
マイルだった。

「この物件は、ペ
ットOKなんです。
ただし小型犬と猫
に限定されていて、
一家族で二匹まで
という条件があり
ますが」

 近頃はペットブ
ームだとかで、飼
えないマンション
は売れ残るケース
も出てきているの
だという。

「狆ですか。珍し
いですね。昔、親
戚が飼っていて抱
っこしたことがあ
りますよ。猫みた
いな可愛い犬です
よね」

 お愛想だとわか
っているのに、誉
められるとやはり
嬉しい。最近はシ
ーズーやテリアば
かりが人気で、狆
の数はどんどん減
っている。この犬
の存在を知らない
人も多いのに、営
業マンは知ってい
た。

 なんだか嬉しく
てご縁を感じて、
深く考えずにじゃ
あ買いますと言っ
てしまった。即決
したので、彼は少
し、驚いた顔をし
ていたが、口元は
柔らかい笑みを消
さず、ありがとう
ございます。では
また詳しい書類を
ご用意して、ご自
宅に伺わせていた
だきます、と頭を
下げた。

 実家の親に報告
すると呆れられた
が、
「あんたの好きに
しなさい、でも、
うちには援助でき
るようなお金はな
いからね」
 とこの衝動買い
を認めてくれた。

 親が止めるのも
きかずに、上京す
ることを決めた私
なのだ。一度決め
たら何を言っても
ムダだとわかって
いるのだろう。

 それから三ヶ月
後。
 1LDKは、晴
れて私のものとな
った。部屋面積は
モデルルームの半
分くらいしかない
ので、リビングも
広々しているわけ
ではないが、独り
身には充分すぎる
ほどだった。

 奮発して買った
大きめのブルーの
ソファに腰掛ける
と、なんだか落ち
着かないくらいに
座面も、空間も広
い。

 何より贅沢だっ
たのは、夜の窓景
だった。

 家々の明かりが
ぼんやりしたオレ
ンジ色で、駅やビ
ルは白っぽい黄色
で、そして車のテ
ールランプは赤く、
きらきらと輝いて
いる。まるでどこ
かのホテルの部屋
にでもいるかのよ
うな眺めを、毎日、
味わうことができ
た。

 私は、幸せだっ
た。

 さっそく恋人の
ミナトを呼んだ。

 彼にはずっとマ
ンションを買った
ことを、秘密にし
ていた。ただ、引
っ越したのとだけ
言って、週末に呼
んだ。

「ちょっと駅から
歩くけど」
 と丘を登り、
「ここなの」
 と手のひらを差
した時の誇らしさ。

「……買ったの?
」
 見るからにぴか
ぴかの、分譲マン
ション。私はにっ
こりと頷いた。オ
ートロックのドア
をキーで開け、
「どうぞ」
 と部屋に誘う。

 ここが寝室、こ
こがキッチン、こ
こがクローゼット
……。案内してい
る間中、顔が緩ん
でいた。一城の主
になるということ
は、こんなにも華
やかな気分なのだ
ろうか。

「ね、いつでも泊
まりに来て」
 さらりとこんな
ことも、言えてし
まう。前のワンル
ームマンションの
時は、ふたりだと
窮屈だったけれど、
ここならば一緒に
暮らすことも不自
然ではないくらい
に広い。

 ミナトはすごい、
すごい、と喜んで
あちこちを見て回
った。そして洗面
台の上に棚があっ
たほうがいいとか、
ベランダにテーブ
ルと椅子を置いて
お茶をしようとか、
手を加えてくれよ
うとしている。

 ミナトは、私よ
りも三つ年下だっ
た。

 彼が同い年だっ
たら、ここまで素
直に私の買い物を
喜んでくれなかっ
ただろうと思う。
恋人が先に不動産
を手に入れたとい
うことで、プライ
ドが傷ついたりも
するだろう。

 でも彼は、そん
な嫉妬とか焦りと
かを私に投げては
こない。いつかは
自分もマンション
を買うかもしれな
いけど、別に今は
要らない、それよ
りも恋人の新居の
サポートをしたい。
そう純粋にこの現
実を受け止めてく
れている。付き合
いやすい男だった。

 私は、満足だっ
た。

 自分のものなの
だから、どこにど
う手を加えてもい
いのだ。傷をつけ
ちゃいけない、汚
しちゃいけない、
とちんまり座って
いた賃貸暮らしと
は、全然違う。

 これからは、ガ
ーデニングを楽し
んだり、壁に飾る
絵を選んだりして
住まいを楽しんで
いくのだ。急に、
お金持ちになった
ような気が、して
いた。

 あんまりにも誇
らしくて、私の心
臓がドキドキ、高
鳴っていた。気分
が高揚しているか
らだ、そう思って、
この鼓動にうっと
りとした。

 なのに、このと
きめきは、いつま
でも、おさまらな
かった。どうした
んだろう。興奮し
すぎちゃったのだ
ろうか。最近運動
不足だったし、は
しゃいで部屋の中
を歩き回りすぎた
せい、のだろうか。

 ドキドキは、お
さまらなかった。

 雨雲が空に広が
るように、じわじ
わと、不安感が広
がっていく。でも
苦しいわけではな
い。なんとなく胸
が騒ぐ、というだ
けだ。だから、笑
顔で、ミナトとワ
インを飲み続ける
ことは、できた。

 その夜、ミナト
は私を求めてきた。

 新しい部屋の、
新しいソファの上
で、私はスカート
をめくりあげられ
る。

「窓、開けたまま
したら?」
 そんな恥ずかし
いことを、彼が囁
いてくる。

 いつもの私だっ
たら、きっと、ノ
ッていたと思う。
恥ずかしいと言い
ながらも、電気を
消して、真っ暗な
中でぴっとりと、
まだ汚れひとつな
いガラス窓に裸身
を貼り付けたかも
しれない。

 けれど……、私
はそれどころでは
なかった。息苦し
くて、笑うことも、
彼の声に答えるこ
とも、できなかっ
た。

 彼が覆いかぶさ
ってくる。
 いつもだったら
男の身体の重みを
感じる、幸せな一
瞬だ。なのに、今
日は胸の締めつけ
感が増すだけだっ
た。むぎゅう、と
心臓までもが押し
潰されそうになる。

 動悸がどんどん
激しくなる。
 とくとくとくと
くと今まで規則正
しく打っていたの
が、とッとッとッ、
とととととと、と
細かく不規則に水
滴が落ちるかのよ
うなリズムになる。

 あまりに早い鼓
動に、息を吸うこ
とも、吐くことも
ままならなかった。
動悸に身体がつい
ていけない。

 彼の指がパンテ
ィの中に忍んでき
そうになった時、
私は息も絶え絶え
になって彼の腕を
掴んだ。

「どうしたんだ、
真っ青じゃないか」

 彼の慌てた声が、
遠くに聞こえた。
 耳も目もぼうっ
と、霞んだ。
 胸を押さえたま
ま、私は、ソファ
の上に倒れ込んだ。

 ミナトが慌てて
私の顔を覗き込ん
でいる。 酸素が、
欲しかった。
 頭まで、ぼうっ
と、してきた。

「救急車!? 呼ぶ!
?」

 頷くことも、で
きなかった。見え
ないけれで、分厚
い海藻のようなも
のが確かにここに
あり、私の首を絞
めている。どう藻
掻いても、呼吸が
ほとんどできない。

 薄れゆく意識の
中で考えていたこ
とは、下着のこと
だった。ミナトは
パンティを脱がし
たんだっけ、それ
とも私は履いたま
まだったっけ……。

 パンティは膝ま
で下ろされていた
っけ、それともち
ゃんと腰に貼りつ
いているっけ……。

 救急隊員が来る
時までに、ミナト
は下着をつけてお
いてくれるだろう
か。

 死ぬかもしれな
いのに、そんなこ
とを、ぐるぐるぐ
るぐる、考えてい
た。視界も、ぐる
ぐると回っていた。


<ここまで>


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